天地(あめつち)初めて発(ひら)けし時、高天(たかあま)の原に成(な)れる神の名は、天之御中主神(あまのみなかぬしのかみ)、次に高御産巣日神(たかみむすひひのかみ)。次に神産巣日神(かみむすひのかみ)。此(こ)の三柱(みはしら)の神は、並(みな)独神(ひとりかみ)と成(な)り坐(ま)して、身を隠したまひき。
次に国稚(わか)く浮きし脂(あぶら)の如くして、久羅下那州多陀用弊流(くらげなすただよへる)時(とき)、葦牙(あしかび)の如く萌(も)え騰(あが)る物に因(よ)りて成れる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)。次に天常立神(あまのとこたちのかみ)。此の二柱(ふたはしら)の神も亦(また)、独神と成り坐して、身を隠したまひき。
上(かみ)の件(くだり)の五柱(いつはしら)の神は、別天神(ことあまつかみ)ぞ。
生前に功績のあった偉人は、亡くなられた後に神社を建立し、神として祀られる場合が少なくない。日露戦争の英雄、東郷元帥や乃木将軍はそれぞれ東郷神社と乃木神社の御祭神として祀られている。明治天皇も当然、明治神宮に祀られているが神となられたことを誰も不思議に思わない。
日本古代の神々も実際は、生前に大功があり偉大な祖先として祀られたのが始まりであれば、神話は神となられた偉人の実話として信じられ、伝承された物語と言うことができる。神話が実話であるというのには、説明が必要であろう。
神話には事実である部分とそうではない、虚構が混然一体となっているが、その虚構の部分には真実が隠されており、真実もまた実話である、とするのが基本的な考え方である。神々の最初の神、天御中主神(あまのみなかぬしのかみ)が現実に活躍したのが2,200年前の弥生時代で、そこまで時代が古いと天御中主神の両親や兄弟姉妹等の血縁の記憶も消え、伝承もなく今日に至っている。『古事記』上巻で展開する神々の系譜と神話は、事実として語られることはないが、そこには古代史の真実があり、多分に事実も含んでいるのである。
「別天神(ことあまつかみ)」として冒頭に登場する五柱(いつはしら)の神々は、全員「独神(ひとりかみ)」として妻もなく子供もいない存在であり、各神々の関係性、すなわち親子なのか兄弟なのかも示されていない。やはり時代が古過ぎるゆえの情報不足であるが、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)や神産巣日神(かみむすひのかみ)は後段でもしばしば登場し、娘や息子を儲けていることが分り、人としての活動の痕跡を残している。
「別天神」の五柱の神々は、記述された順番に親子関係にあるとみれば、そこですでに最初の系譜が成立する。特別な神々である「別天神」は「天つ国」の神々である。「天つ国」はどこにあるのか。天上にある国とされているが、現実にはあり得ず、まさに事実ではなく、実話とは言い難いが、真実を暗示している。
2,200年前の弥生時代、東アジア大陸では紀元前221年に秦(しん)の始皇帝が天下を統一し、大陸東北部に位置する燕(えんの)国が滅び、秦の支配を逃れた遺民が朝鮮半島北部に渡り、衛氏(えし)朝鮮を建国する。朝鮮半島にはすでに日本民族の倭人(わじん)が居住しており、朝鮮半島北部にいた倭人が半島南部に追われ、その一部が故郷である日本本土に里帰りし、定住したのが天つ国の人々、天御中主神(あまのみなかぬしのかみ)を首長に仰ぐ一族である。
天つ国は朝鮮半島の地を指すが、その地を追われた天つ神一行は、祖国日本を大陸の侵略から守り独立国として統一国家を建国するために西日本を中心に世界情勢を説いて回り婚姻によって友好関係を構築し、それが次の国生み神話となって真実を物語る。『古事記』中巻は応神天皇で締めくくるが、その事績の最後に昔話の形で天日矛(あまのひぼこ)が登場する。新羅(しらぎの)国の皇子であるが、妻を追って日本に渡ったとある。「天日矛(あまのひぼこ)」という名称が示唆に富んでいる。朝鮮半島中西部に位置する新羅出身で、名称の冒頭に「天(あま)」が付されており、日本に先行して帰国した天つ神一族と同族であることを示し、天つ神一族が朝鮮半島を故郷にしていたこともわかる。また、「天日矛」には「日」の文字が用いられ、「日の御子」として天つ神一族の末裔であることも示している。神話には「常世の国」という、天上の国でも、あの世でもこの世でもない国があるが、その実態は、天つ神一族の心の故郷であり、理想の国が常世の国、朝鮮半島の地である。
古く朝鮮半島には、倭人が居住していたことに触れたが、倭人の活動範囲は朝鮮半島にとどまらない。
倭人が登場する最も古い文献は、王充(おうじゅう)の『論衡(ろんこう)』巻一九「恢国篇(かいこくへん)」に
成王(せいおう)の時に、越裳(えつしょう)は雉(きじ)を獻(けん)じ、倭人は暢草(ちょうそう)を貢(こう)ず。
の一文がある。成王は中国の古代国家、周の成王であり、時代は、紀元前1,115年から同1,079年である。日本では縄文時代後期に相当し、その当時から倭人(縄文人)は、周に朝貢していたのである。しかしここに登場する倭人は、日本本土に居住する倭人ではない。「越裳(えつしょう)」は倭人と共に朝貢した越裳人のことであり、台湾海峡を挟んだ台湾の対岸、会稽(かいけい)山周辺に居住していた越族の一つで、その周辺に倭人の地が存在していた。時代が下ると会稽山を中心に越国が建国されるが、時代は紀元前600年ころから 同306年で、周の時代からは数百年も新しく、倭人(縄文人)が周に朝貢した頃はまだ、その地に国家はなかった。
さらに大きく時代は下るが、『魏志倭人伝』に「會稽東冶之東(かいけいとうやのひがし)」という一文がある。『魏志倭人伝』は、邪馬台国(やまたいこく)とその女王、卑弥呼(ひみこ)についての記述であるが、卑弥呼の死去が西暦248年であるから、すでに古墳時代に入っており大和政権成立と時代が重なる。
その『魏志倭人伝』冒頭には、
倭人は帯方(たいほう)東南、大海の中に在り。山島に依り国邑(こくゆう)を為(な)す。旧百余国、漢の時、朝見(ちょうけん)する者有り。今、使訳(しやく)通ずる所は三十国。
(倭人は帯方郡の東南、大海の中にある国である。山や島に居住し国を形成している。かつては百余国が漢の時代に朝貢していたが、今、魏に朝貢している国は三十か国である。)
とあり、魏に朝貢している国々が三十か国列挙され、それらの国々は一国を除き全て、邪馬台国に従属し、卑弥呼の支配下にある。卑弥呼の支配がどの国まで及んでいたか、その境界を示す記述がある。
女王国より以北、その戸数、道里は略載を得べきも、その余の旁国(ぼうこく)は遠くして絶へ、詳を得べからず。次に斯馬(しま)国有り。次に已百支(いはき)国有り。次に伊邪(いや)国有り。次都支(とき)国有り。次に弥奴(みな)国有り。次に好古都(ほこと)国有り。次に不呼(ぷほ)国有り。次に姐奴(たな)国有り。次に対蘇(つそ)国有り。次に蘇奴(そな)国有り。次に呼邑(ほや)国有り。次に華奴蘇奴(わなそな)国有り。次に鬼(き)国有り。次に為吾(いご)国有り。次に鬼奴(きな)国有り。次に邪馬(やま)国有り。次に躬臣(くぜん)国有り。次に巴利(ぱり)国有り。次に支惟(きゆい)国有り。次に烏奴(おな)国有り。次に奴(な)国有り。ここは女王の境界尽きる所。
「女王国」すなわち邪馬台国の北に位置する国々については、国の大きさを示す人口や路程、距離を略記できるが、その南側の国々については「遠くして絶へ、詳を得べからず。」とあり、遠方過ぎて詳細不明のため、人口や路程、距離を記せないと断って国名だけを列挙し、上記の二一か国が「女王の境界尽きる所」であり、支配の及ぶ国々である。さらに続けて、
その南、狗奴(こな)国有り。男子が王と為る。その官は狗古智卑狗(ここちぴこ)有り。女王に属さず。郡より女王国に至る。万二千余里。男子は大小無く、皆、黥面(げいめん)文身(ぶんしん)す。古より以来、その使中国に詣(いた)るや、皆、自ら大夫(たいふ)と称す。夏后(かこう)少康(しょうこう)の子は会稽(かいけい)に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍(こうりゅう)の害を避く。今、倭の水人(すいじん)は沈没して魚蛤(ぎょこう)を捕るを好み、文身は、亦、以って大魚、水禽(すいきん)を厭(はら)う。後、稍(しだい)に以って飾と為る。諸国の文身は各(それぞれ)に異なり、或いは左し、或いは右し、或いは大に、或いは小に、尊卑の差有り。その道里を計るに、まさに会稽、東冶(とうや)の東に在るべし。
と、まず卑弥呼に従属しない唯一の国、「狗奴(こな)国」の説明があり、狗奴国の風俗習慣の記述が続く。ここに中国最古の王朝である夏の第六代皇帝「夏后少康」に言及し、その庶子である無余(むよ)が会稽に封じられ、「郷にいては郷に従え」そのまま、会稽の風俗である、「断髪文身」を自ら実践している。「文身」は、水難除けに全身に入れ墨を施すことである。
さて卑弥呼に服従しない「狗奴国」であるが、その風俗は、夏の時代の会稽の風俗同様、「黥面文身」とあり、全身にとどまらず「黥面」、顔面にも入れ墨をしているのである。
その「狗奴国」の所在地は、「まさに会稽、東冶の東」の位置であり、「東冶」は現在の中国福建省福州市に該当し、東シナ海を隔てたその真東には、沖縄県が「まさに」その位置にある。三世紀半ばの古墳時代、狗奴(こな)国すなわち沖縄の倭人の風俗は、顔と全身に入れ墨をした「黥面文身」の民であった。
先に述べた『論衡(ろんこう)』巻一九「恢国(かいこく)篇」によれば、紀元前1,000年ころには、会稽の地に倭人が居住し、周に朝貢していた。さらに古く、紀元前1,800年ころの夏の時代にも、同地には、「黥面文身」の倭人が居住しており、夏后少康の庶子、無余が倭人の風俗を取り入れている。
この無余は、春秋時代に越(えつ)国を建国した越王勾践(えつおうこうせん)の始祖であり、無余の一族が会稽の地で越族を形成し、同地で倭人と共存共栄していたのが周の時代、紀元前1,000年ころであるが、周が分裂し、春秋時代(紀元前771年ー同453年)になって群雄が割拠し、越国が呉国を攻め滅ぼしたのが紀元前473年、このころに大陸の混乱を逃れて、「狗奴国(沖縄)」に退去したのが会稽に進出していた倭人である。その結果、魏の時代、三世紀半ばの古墳時代の倭人の勢力範囲は、狗奴国が最南端であり、今日まで脈々と続いている。
縄文時代に倭人は、九州の地から奄美諸島を経て沖縄諸島、そして南西諸島の島伝いに大陸の会稽に進出したが、その逆もある。越国は紀元前306年に楚(その)国によって滅亡し、その遺民が島伝いに九州に上陸し、さらに海行の末、最初は山陰の出雲国(島根県)の高志(越)、さらにその先の北陸の地に越国(越前、越中、越後)を領有するようになるが、天つ神一族が朝鮮半島から日本本土に帰還するよりも100年以上先行している。
縄文時代の倭人は、台湾の先、会稽にまで進出していた。その航海技術をもってすれば、北九州、あるいは山陰から朝鮮半島に渡海し、日本海を内海の如くにして往来、海上交易を担うのも容易である。ちょうどこのころに西アジアから地中海沿岸では、フェニキア人が海上交易の主役であった。しかし、巨大な統一国家の誕生によって縄文の倭人もフェニキア人もその特権を失うことになる。
朝鮮半島に縄文の倭人が居住していた痕跡は、時代は下がるものの、まず280年に成立した『三国志』「魏書三十 烏丸(うがん)鮮卑(せんぴ)東夷伝(とういでん)第三十 韓(から)」に、
韓は帯方の南に在り、東西は海によって限られ、南は倭と接し、方は四千里。三種あって、一は馬韓(ばかん)といひ、二は辰韓(しんかん)といひ、三は弁韓(べんかん)といふ。
とある。
同様に432年に成立した『後漢書』「巻八十五 東夷列伝 三韓」に、
韓に三種有り。一は馬韓といひ、二は辰韓といひ、三は弁辰といふ。馬韓は西に在って、五十四国、其の北は楽浪(らくろう)と、南は倭と接す。辰韓は東に在って、十二国、其の北は濊貊(わいはく)に接す。弁辰は辰韓の南に在り、亦十二国、其の南も亦倭に接す。
とあり、両書ともに朝鮮半島北部は漢の帯方(たいほう)郡、中部が三韓、そして南部に倭が位置し、三韓と隣接していると記している。
朝鮮半島の歴史は地政学上、陸続きの大陸の政情がダイレクトに影響する。紀元前1,100年ころ中国の古代王朝、殷(いん)が周に滅ぼされ、殷の遺民の箕子(きし)が朝鮮半島北部に箕子朝鮮を開く。この900年後、秦の始皇帝が天下を統一したのが紀元前221年、同226年には朝鮮半島の北側に隣接していた燕国が滅亡し、その遺民が箕子朝鮮に代わって衛氏(えいし)朝鮮を打ち立てる。秦の天下統一は、朝鮮半島の倭人にも混乱をもたらし、倭人の一部族が天つ神一族として本国日本に帰還することになる。
秦が漢によって滅ぶと朝鮮半島北部に帯方郡が置かれ、朝鮮半島に国が乱立する時代になり、その中の一つに倭人の国があった。
中国大陸に古代国家、夏・殷・周が誕生した時代の日本は縄文時代である。古代国家の時代は、辺境の地にある北の朝鮮半島や南の会稽にまで支配は及ばず、縄文の倭人がその航海技術を駆使して縦横に往来していたのであり、巨大権力に対抗するための国家を必要としない時代であった。
縄文時代の倭人は、海洋を活動、生活の場とする海洋民族の倭人と内陸の山間地域を活動、生活の場とする、現在一般的に語られる縄文の倭人に大別することができる。中国の文献に登場する倭人は、海洋民族としての倭人であり、内陸山間地の倭人は、そもそも交流がなく文献に登場しようがない。しかし縄文遺跡としては内陸山間地の倭人の遺跡が圧倒的であって、海洋民族としての倭人の遺跡は貝塚に見るのみである。
その貝塚であるが、分布しているのは、現在の海岸線近くではなく、内陸に入ったところで発見されている。その理由は縄文海進(じょうもんかいしん)に求めることができる。
縄文海進は縄文時代の海面上昇のことであり、約19,000年前から海面が上昇し、そのピークは約6,500年前から約6,000年前までの縄文時代に該当している。この時代の海面は、現在よりも5メートルも高く、貝塚は縄文時代の海岸線近くに形成されているのである。
この時代はまた、北米や北欧の氷河が融解し、日本列島周辺の海面が上昇するほどに温暖な時代であった。縄文遺跡が鈴鹿、不破両関の東側である東日本に集中しているのも食糧である動物性蛋白とともに主食の炭水化物、クルミ、クリ、トチといった堅果類が豊富に採取できる落葉樹林帯の植生に関係している。この地域を生活圏としていたのが山の民、縄文の倭人である。
縄文海進のピークは約6,500年前から約6,000年前であるから、この後は海面が徐々に低下し、約5,000年後の弥生時代には、現在の海面に戻る。気候は温暖な縄文時代から寒冷な弥生時代に変化し、当然植生も激変、主食であるクルミ、クリ、トチといった堅果類が不作、あるいは絶滅してしまう。縄文遺跡を代表する三内丸山遺跡が約4,200年前に姿を消すのもこの植生の変化に起因している。
この気候変動に伴う植生の変化によって縄文人は絶滅したのかというと、決してそうではない。弥生人としてさらに発展するのである。縄文の食糧事情を好転させたのが水田稲作である。海水面の低下によって広大な湿地帯が生まれる。湿地帯の開墾によって水田稲作が始まり、食糧難の解消だけでなく、人口が増加し、縄文の豊かな精神文化に加え、青銅器とそれに続く鉄器がもたらす高度な物質文明の時代に踏み出すのである。
山の民である縄文の倭人が平地に下り、海の民である縄文の倭人が陸地に上がり、共に水田稲作を開始するのであるが、その普及に大きく貢献したのが天つ神一族の末裔である。天つ神一族は、朝鮮半島と日本本土、中国大陸を海上交易の場とする倭人、海の民であり、その航海術と行動力によって水田稲作の普及に寄与したことが『古事記』に明記されている。おそらく水田稲作の最初は、紀元前1,000年ころに周が分裂し、紀元前771年の群雄が割拠する春秋時代にかけて、大陸の政情不安から江南の越人が南九州に逃れて始めた、湿地を利用した原始的な水稲稲作であろうが、近畿一円に及ぶ灌漑や土木を伴った水田稲作の普及発展には天つ神一族の活躍に俟(ま)たねばならない。