『古事記』を推理(よ)む

日本人の教養シリーズⅠ 『古事記』 ー日本建国と発展の歴史ー
日本人の教養シリーズⅠ 『古事記』 ー日本建国と発展の歴史ー

『古事記』上巻

2022.05.28 5 出雲国を逃れ日向国へ

是(ここ)に妹伊邪那美命を相見むと欲(おも)ひて、黄泉国(よもつくに)に追い往(ゆ)きき。爾(ここ)に殿の縢戸(さしど)より出で向かへし時、伊邪那岐命、語らひ詔りたまひしく、
「愛(うつく)しき我が那邇妹(なにも)の命、吾(あ)と汝(な)と作れる国、未だ作り竟(を)へず。故(かれ)、還るべし。
とのりたまひき。爾に伊邪那美命答へ白(まを)ししく、
「悔(くや)しきかも、速(と)く来(こ)ずて。吾は黄泉戸喫(よもつへぐひ)為(し)つ。然れども愛(いと)しき我が那勢(なせ)の命、入り来坐(ま)せる事恐(かしこ)し。故(かれ)、還らむと欲(おも)ふを、且(しばら)く黄泉神(よもつかみ)と相論(あげつら)はむ。我(あ)をな視たまひそ。」
とまをしき。如此(かく)白(まを)して其の殿の内に還り入りし間(あひだ)、甚(いと)久しくて待ち難(かね)たまひき。故、左の御美豆良(みみづら)に刺せる湯津津間櫛(ゆつつまくし)の男柱(をばしら)一個(ひとつ)取り闕(か)きて、一つ火燭(とも)して入り見たまひし時、宇士多加礼許呂呂岐弖(うじたかれころろきて)、頭(かしら)には大雷(おほいがづち)居(お)り、胸には火雷(ほのいかづち)居り、腹には黒雷(くろいかづち)居り、陰(ほと)には拆雷(さくいかあづち)居り、左の手には若雷(わかいかづち)居り、右の手には土雷(つちいかづち)居り、左の足には鳴雷(なるいかづち)居り、右の足には伏雷(ふすいかづち)居り、併(あは)せて八(やつ)はしらの雷神(いかづちがみ)成り居りき。
是(ここ)に伊邪那岐命、見畏(かしこ)みて逃げ還る時、其の妹伊邪那美命、
「吾(あ)に辱(はぢ)見せつ。」
と言ひて、即ち豫母都志許売(よもつしこめ)を遣はして追はしめき。爾に伊邪那岐命、黒御鬘(くろみかづら)を取りて投げ棄(う)つれば、乃ち蒲子(えびかづらのみ)生(な)りき。是を摭(ひり)ひ食(は)む間に、逃げ行くを、猶追ひしかば、亦其の右の御美豆良に刺せる湯津津間櫛を引き闕きて投げ棄つれば、乃ち笋(たかむなな)生(な)りき。是を抜き食む間に、逃げ行きき。且(また)後には、その八はしらの雷神に、千五百(ちいほ)の黄泉軍(よもついくさ)を副(そ)へて追はしめき。爾に御佩(みはか)せる十拳劔(とつかのつるぎ)を抜きて、後手(しりへで)に布伎都都(ふきつつ)逃げ来るを、猶追ひて、黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本に到りし時、其の坂本に在る桃子(もものみ)三個(みつ)を取りて、待ち撃てば、悉(ことごと)に逃げ返りき。爾に桃子(もものみ)に告(の)りたまひしく、
「汝(なれ)、吾を助けしが如く、葦原中国(あしはらのなかつくに)に有(あ)らゆる宇都志伎(うつしき)青人草(あをひとくさ)の苦しき瀬に落ちて患(うれ)ひ惚(なや)む時、助くべし。」
と告(の)りて、名を賜ひて意富加牟豆美命(おほかむづみのみこと)と号(い)ひき。
最後(いやはて)に其の妹伊邪那美命、身自(みづか)ら追い来りき。爾に千引(ちびき)の石(いは)を其の黄泉比良坂(よもつひらさか)に引き塞(さ)へて、其の石を中に置きて、各(おのもおのも)対(むか)ひ立ちて、事戸(ことど)を度す時、伊邪那美命、言ひしく、
「愛(うつく)しき我が那勢(なせ)の命、如此(かく)為(せ)ば、汝(な)の国人草(くにのひとくさ)、一日(ひとひ)に千頭(ちがしら)絞(くび)り殺さむ。」
といひき。爾に伊邪那岐命詔(の)りたまひしく、
「愛(うつく)しき我が那邇妹(なにも)の命、汝(なれ)然為(しかせ)ば、吾(あれ)一日に千五百(ちいほ)の産屋(うぶや)立てむ。」
とのりたまひき。是を以て一日に必ず千人(ちたり)死に、一日に必ず千五百人(ちいほたり)生まるるなり。故(かれ)、其の伊邪那美命を号(なづ)けて黄泉津大神(よもつおほかみ)と謂(い)ふ。亦伝(い)はく、其の追斯伎斯(おひしきし)を以ちて、道敷大神(ちしきのおほかみ)と号(なづ)くといふ。亦其の黄泉の坂に塞(さや)りし石(いは)は、道返之大神(ちがへしのおほかみ)と号け、亦(また)塞坐黄泉戸大神(さへりますよもつとおほかみ)とも謂ふ。故、其の謂(い)はゆる黄泉比良坂(よもつひらさか)は、今、出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)と謂ふ。

 伊邪那岐命は最後の別れに、妻を葬った比婆山の御陵を訪れるとそこには、迦具土神一族、高志氏の残党が待ち構えていた。「宇士多加礼許呂呂岐弖(うじたかれころろきて)、頭には大雷居り、胸には火雷居り、腹には黒雷居り、陰には拆雷居り、左の手には若雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴雷居り、右の足には伏雷居り、併せて八はしらの雷神成り居りき。」とあり、その様は、ウジ虫が一処に集まってもぞもぞしているように(宇士多加礼許呂呂岐弖)、雷、すなわち軍隊が八軍団に分かれて蝟集しているのである。軍隊を雷に例えるのは、軍隊が大音響を響かせて追い来る様が雷鳴そのものだからである。『古事記』序文に、壬申の乱で天武天皇側の行軍の様子を「六師雷(いかづち)のごとく震ふ、三軍電(いなづま)のごとく逝きき。」と描写し、「雷のごとく」とは六師団の行軍が雷鳴のごとく轟き、地を震わすことを言い、「電のごとく」は、稲妻が走る如く迅速なことを言っている。ウジ虫のように蝟集している軍隊を「雷」に例えており、地を震わせながら突進してくる様を表しているのである。
 黄泉比良坂の上り口で、意富氏一族が加勢に加わる。この意富加牟豆美命の働きによって伊邪那岐命は、千五百人の軍団をようやく振り切り、難を逃れ、その黄泉比良坂(伊賦夜坂)を巨岩で塞ぐが、この時に活躍したのが道返之大神で別名、黄泉戸大神である。この大神は、黄泉比良坂こと伊賦夜坂一帯を支配する氏族、伊賦夜氏であろう。
出雲国の黄泉比良坂(伊賦夜坂)は意宇郡(おうぐん)餘戸里(島根県松江市東出雲町)の揖屋(いや)と言われ、揖夜(いふやの)神社が鎮座し、中海に面していることから、次の段に「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原に到り坐して」とあるように、中海から海路、九州の日向国を目指した。
 ところで意富加牟豆美命の出身豪族である意富氏は、意宇郡(おうぐん)を地盤とする豪族であり、意宇川流域を支配し、伊邪那岐命一行に随身して日向国に同行、後の神武天皇東遷で大和入りを果たし、第二代綏靖天皇の皇子を婿に迎えることによってその皇子が意富氏を継承し、後裔が意富臣を賜うのである。

2022.05.18 『古事記』系図(神生み二)

 「4 神生み二ー天つ神一族の産業、鉄鉱石を原料にした製鉄ー」までの系図を更新しました。

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2022.04.13 4 神生み二ー天つ神一族の産業、鉄鉱石を原料にした製鉄ー

故(かれ)爾(ここ)に伊邪那岐命詔(の)りたまひしく、
「愛(うつく)しき我が那迩妹(なにも)の命を、子の一つ木に易へつるかも。」
と謂(の)りたまひて、乃ち御枕方(みまくらへ)に匍匐(はらば)ひ、御足方(みあとへ)に匍匐ひて哭(な)きし時、御涙に成れる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木の本に坐(いま)して、泣沢女神(なきさはめのかみ)と名づく。故、其の神避(さ)りし伊邪那美神は、出雲国と伯伎国(ははきのくに)との堺の比婆(ひば)の山に葬(はぶ)りき。
是に伊邪那岐命、御佩(はか)せる十拳剱(とつかのつるぎ)を抜きて、其の子迦具土神(かぐつちのかみ)の頸(くび)を斬りたまひき。爾に其の御刀(みはかし)の前(さき)に著(つ)ける血、湯津石村(ゆついはむら)に走(たばしり)り就きて、成れる神の名は、石拆神(いはさくのかみ)。次に根拆神(ねさくのかみ)。次に石筒之男神(いはつつのをのかみ)〈三神〉。次に御刀の本に著ける血も亦、湯津石村に走り就きて、成れる神の名は、甕速日神(みかはやひのかみ)。次に樋速日神(ひはやひのかみ)。次に建御雷之男神(たけみかづちのをのかみ)。亦の名は建布都神(たけふつのかみ)。亦の名は豊布都神(とよふつのかみ)〈三神〉。次に御刀の手上(たがみ)に集まれる血、手俣(たなまた)より漏(く)き出でて、成れる神の名は、闇淤加美神(くらおかみのかみ)。次に闇御津羽神(くらみつはのかみ)。
  上の件(くだり)の石拆神以下、闇御津羽神以前、併せて八神(やはしら)は、御刀(みはかし)に因りて生れ
  る神なり。
殺さえし迦具土神の頭に成れる神の名は、正鹿山津見神(まさかやまつみのかみ)。次に胸に成れる神の名は、淤縢山津見神(おどやまつみのかみ)。次に腹に成れる神の名は、奥山津見神(おくやまつみのかみ)。次に陰に成れる神の名は、闇山津見神(くらやまつみのかみ)。次に左の手に成れる神の名は、志芸山津見神(しぎやまつみのかみ)。次に右の手に成れる神の名は、羽山津見神(はやまつみのかみ)。次に左の足に成れる神の名は、原山津見神(はらやまつみのかみ)。次に右の足に成れる神の名は、戸山津見神(とやまつみのかみ)。〈正鹿山津見神より戸山津見神まで、併せて八神〉故、斬りたまひし刀(たち)の名は、天之尾羽張(あめのをはばり)と謂ひ、亦の名は伊都之尾羽張(いつのをはばり)と謂ふ。


 亡き妻伊邪那美命を葬る際に流した伊邪那岐命の涙が神となり、泣沢女神として香山の麓に鎮座される。この香山は、岡山県勝田郡勝央町の「上香山」と美作市の「下香山」の上下香山のことである。妻を葬った場所が「出雲国と伯伎国との堺の比婆の山」であり、広島県比婆郡烏帽子山がこれに該当する。須佐之男命は父の伊邪那岐命に「汝命は、海原を知らせ。」と命じられた時に、それが不満で何年間も泣き暮らした。伊邪那岐命が理由を尋ねると「僕(あ)は妣(なきはは)の国根の堅洲国(かたすくに)に罷(まか)らむと欲(おも)ふ。故(かれ)、哭(な)くなり。」と答え、結局、天つ国から追放されることにより、母伊邪那美命の比婆山御陵に向かうのである。「比婆山」の山名の由来は、須佐之男命の妣(なきはは)の「妣(ひ)」と妣(なきはは)への敬称である長命の老女を意味する「婆(ば)」にあり、まさしく須佐之男命の実母である伊邪那美命(妣婆)を埋葬した場所を示している。そこで「出雲国の肥の河上、名は鳥髮といふ地に」降臨した。この「鳥髮」は鳥取県日南町と島根県奥出雲町との県境に位置する船通山のことで、その西側に比婆山御陵がある。船通山と比婆山御陵は「出雲国(島根県)と伯伎国(鳥取県)との堺」に跨り、泣女神が鎮座する香山は中国山地を隔てた岡山県寄り、勝央町と美作市にかけた盆地である。この盆地を地盤とする豪族、香山氏が伊邪那岐命と婚姻を結び誕生したのが泣女神であり、伊邪那美命の祭祀する斎院の先駆けになったと思われる。香山氏は、須佐之男命の御子である大年神が前大和朝を樹立する際に大和国に勢力を拡大し、天の香具山山麓一帯を支配下に置き、大和国十市郡の畝尾都多本神社(橿原市木之本)に泣女神を勧請して祭神とするが、その目的は伊邪那美命の祭祀にある。
 最愛の妻伊邪那美命を殺された伊邪那岐命が迦具土神(火之夜芸速男神)に復讐し、妻の仇討ちを果たす。迦具土神の血がほとばしり神々が誕生する。
 迦具土神の出自は、出雲国神門郡古志郷(島根県出雲市知井宮町、古志町、下古志町一帯)の豪族、古志氏であるから、一旦は伊邪那岐命との婚姻が成立したものの、両者は製鉄のテクノクラート一族であり、その製法の違いから争いに発展したものと思われる。古志氏は砂鉄を原料にしたたたら製鉄であり、伊邪那岐命一族は大陸の製鉄技術である鉄鉱石を用いた製鉄である。古志氏は最新技術を受け入れられず、あるいはその最新技術を独占しようとして抗争に発展し、武力衝突に至ったのであろう。その抗争で伊邪那美命が落命する。
 伊邪那岐命と古志氏の娘との間に神々が誕生し、その神々は伊邪那岐命と行動をともにする。そしてそれらの神々は、鉄鉱石を原料にした製鉄の技術者である。最初に石拆神、根拆神、石筒之男神の三神。次に甕速日神、樋速日神、建御雷之男神(別名建布都神、豊布都神)の三神。さらに闇淤加美神と闇御津羽神の二神の八柱の神々が誕生する。
石拆神は鉄鉱石を切り出すための工具を管理し、切り出し職人を束ねる棟梁ある。根拆神は大木の根を切断する工具を管理し、鉄鉱石を溶融して銑鉄に加工するための燃料である木材を切り出す職人の棟梁である。石筒之男神は鉱山の管理者であり新鉱山を開発する職人の棟梁である。次の三神の最初、甕速日神は、鉄器の鍛造に必要な大量の水を溜めて置く甕の製造者で、陶器を製造する職人の棟梁であり、火(日)を操る技術者の棟梁でもある。樋速日神は「樋(とい)」によって川の水を甕まで導く技術者の棟梁であり、「日(ひ)」は「樋(ひ)」に通じる。三神最後の建御雷之男神こそ鉄を刀剣や工具に加工し製造する刀鍛冶の棟梁である。「御雷(みかづち)」には、鉄塊を鍛錬する槌と槌音が雷鳴の如く鳴り響くことを掛けている。最後の二神、闇淤加美神は、山奥の水源から水を引く樋までの川筋を掘削する土木技術の棟梁であり、その川筋には「龍(おがみ)」の呼称がある。闇御津(みず)羽神は山の最奥部の水源を管理する管理者集団の棟梁である。この闇淤加美神は大国主命の五代の祖であるから大国主命はその末裔である。建御雷之男神はその大国主命に武力で国譲りを迫った天つ神一族であるが、その出自は迦具土神と同族の古志氏であるから、出雲国の領有を正当化する根拠を有している。
最後に誕生した神が正鹿山津見神、淤縢山津見神、奥山津見神、闇山津見神、志芸山津見神、羽山津見神、原山津見神、戸山津見神の八神に加え、天之尾羽張、別名は伊都之尾羽張の神々である。正鹿山津見神以下の八神はすべて山の倭人の総元締め山津見神一族である。
 まず正鹿山津見神であるが、神名に冠せられた「正鹿」は、「正勝」とも表記され(『日本書紀』神代紀上)、「正勝(まさかつ、まさか)」と読むことができる。天照大御神の第一御子が正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命であるから、御子名に冠せられた「正勝」は正鹿山津見神の「正鹿(勝)」からとられており、正鹿山津見神の末裔が正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命となるであろう。大山津見神に伊邪那岐命の御子が婿入りして正鹿山津見神を称し、山の倭人一族の族長である大山津見氏を継承した結果、その血脈が次世代の天照大御神に繋がるのである。
 次の淤縢山津見神の「淤縢(おど)」は「大戸(おほど)」であろう。八神末席の戸山津見神の「戸」に対する「大戸」で、多くの山が連なる山脈の出入り口の支配者が淤縢(大戸)山津見神であり、個別の山の出入り口の支配者が戸山津見神ということになろう。「大戸」の表記を避けたのは、神世七代の段で登場した意富斗能地神の「意富斗(大戸)」や神生みの最初に登場した大戸日別神の「大戸」と区別するためであり、大戸氏とは別系統の神であることを示している。
次の奥山津見神は、淤縢(大戸)山津見神が支配する山脈の出入り口のさらに奥の山を支配する一族となり、次の闇山津見神はさらに奥地の支配者となろう。
次の志芸山津見神、羽山津見神、原山津見神、戸山津見神の四神は、山麓をそれぞれに分担して支配した一族となる。志芸山津見神の「志芸」は「繁(しげ)」のおいであり、広葉樹林帯で比較的温暖であり、縄文の山の民の主な居住地である。羽山津見神は山麓の端で、次の原山津見神が支配する平地と山の境界地を支配したのであろう。戸山津見神は個々の山の出入り口の支配者である。
伊邪那岐命の御子はそれぞれの山の支配者、すなわち神々に婿入りして一族を継承する。これらの婚姻の目的は、山奥の鉱山の開発と、産出した鉄鉱石を溶融するための燃料である木材の供給である。こうした山の支配者との連携により製鉄のテクノクラートである伊邪那岐命一族の技術力が最大になるのである。
最後の伊都之尾羽張(天之尾羽張)は、出雲国譲りの段に登場する神である。この国譲りには最終的に、ここで登場した建御雷之男神が派遣されるが、この建御雷之男神の父親、伊都之尾羽張神として再登場を果たすのである。おそらく伊都之尾羽張神は、伊邪那岐命と古志氏との間に誕生した神であり、その御子が建御雷之男神ということになる。
迦具土神は征伐できたが、古志氏を滅亡させるには至らず、返り討ちに遭い伊邪那岐命一族は出雲の国を追われてしまう。迦具土神が古志(古志郷)に一大勢力を築き、迦具土神の死後も八岐大蛇の世代までその血脈が絶えることはなかった。

2022.04.02 3 神生み一―縄文社会の産業と分業体制、建築・工芸・造船・港湾・製鉄編―

既に国を生み竟(を)へて、更に神を生みき。故(かれ)、生める神の名は、大事忍男神(おほことおしをのかみ)。次に石土毘古神(いはつちびこのかみ)を生み、次に石巣比売神(いはすひめのかみ)を生み、次に大戸日別神(おほとひわけのかみ)を生み、次に天之吹男神(あめのふきをのかみ)を生み、次に大屋毘古神(おほやびこのかみ)を生み、次に風木津別之忍男神(かざもつわけのおしをのかみ)を生み、次に海の神、名は、大綿津見神(おほわたつみのかみ)を生み、次に水戸神(みなとのかみ)、名は速秋津日子神(はやあきつひこのかみ)、次に妹(いも)速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)を生みき。〈大事忍男神より秋津比売神まで、併せて十神。〉
此の速秋津日子、速秋津比売の二はしらの神、河海に因りて持ち別けて、生める神の名は、沫那芸神(あわなぎのかみ)。次に沫那美神(あわなみのかみ)、次に頬那芸神(つらなぎのかみ)、次に頬那美神(つらなみのかみ)、次に天之水分神(あめのみくまりのかみ)、次に国之水分神(くにのみくまりのかみ)、次に天之久比奢母智神(あめのくひざもちのかみ)、次に国之久比奢母智神(くにのくひざもちのかみ)。〈沫那芸神より国之久比奢母智神まで、併せて八神。〉
次に風の神、名は志那都比古神(しなつひこのかみ)を生み、次に木の神、名は、久久能智神(くくのちのかみ)を生み、次に山の神、名は大山津見神(おほやまつみのかみ)を生み、次に野の神、名は鹿屋野比売神(かやのひめのかみ)を生みき。亦の名は野椎神(のづちのかみ)と謂(い)ふ。〈志那都比古神より野椎まで、併せて四神。〉

此の大山津見神、野椎神の二はしらの神、山野に因りて持ち別けて、生める神の名は、天之狭土神(あめのさづちのかみ)、次に国之狭土神(くにのさづちのかみ)、次に天之狭霧神(あめのさぎりのかみ)、次に国之狭霧神(くににさぎりのかみ)、次に天之闇戸神(あめのくらとのかみ)、次に国之闇戸神(くにのくらとのかみ)、次に大戸惑子神(おほとまとひこのかみ)、次に大戸惑女神(おほとまとひめのかみ)。〈天之狭土神より大戸惑女神まで、併せて八神。〉
次に生める神の名は、鳥之石楠船神(とりのいはくすふねのかみ)、亦の名は天鳥船(あめのとりふね)と謂ふ。次に大宜都比売神(おほげつひめのかみ)を生みき。次に火之夜芸速男神(ひのやぎはやをのかみ)を生みき。亦の名は火之炫毘古神(ひのかかびこのかみ)と謂ひ、亦の名を火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)と謂ふ。此の子を生みしに因りて、美蕃登(みほと)炙(や)かえて病み臥せり。多具理(たぐり)に生れる神の名は、金山毘古神(かなやまびこのかみ)、次に金山毘売神(かなやまひめのかみ)。次に屎(くそ)に成れる神の名は、波邇夜須毘古神(はにやすびこのかみ)、次に波邇夜須毘売神(はにやすびめのかみ)。次に尿(ゆまり)に成れる神の名は、弥都波能売神(みつはのめのかみ)、次に和久産巣日神(わくむすひのかみ)。此の神の子は、豊宇気毘売神(とようけびめ)と謂ふ。故、伊邪那美神(いざなみのかみ)は、火の神を生みしに因りて、遂に神避(かむざ)り坐(ま)しき。天鳥船より豊宇気毘売神まで、併せて八神。〉
  凡べて伊邪那岐、伊邪那美の二はしらの神、共に生める島、壱拾肆(とほあまりよつの)島、神、參拾伍(みそ
  あまりいつはしらの)神。
〈是れ伊邪那美神、未だ神避らざりし以前に生めり。唯、意能碁呂島は、生めるに非
  ず。
亦、蛭子と淡島とは、子の例には入れず。〉

 国生みによって海上交易の要衝となる国々は味方につけることができたが、それらは島々に過ぎず、大勢力を築くにはほど遠い。将来の大和建国に向け、縄文の倭人の間に浸透し、より多くの友好国を囲い込まなければならない。その過程がこれからの神生みである。神生みに登場する神々は縄文の倭人の神々であり、その土地ごとの支配者を神格化している。縄文の倭人の間では分業化が進み、組織化され、すでに多くの先進技術を有していたことが神々の存在によって判明し、縄文時代は決して未開な時代ではなく高度な文明文化が築かれた開明の時代として再定義しなければならない。
 友好を結ぶのも容易ではない。婚姻に結実することもあれば、破談も少なくない。成婚したか破談したかは、神名に「天」や「日」が付くか、付かないかの違いによって分かる。付いた場合には見事婚姻成立である。
 伊邪那岐命一行は、最初の寄港地である出雲国(島根県)に戻り神生みで友好国を増やす。神生み最初の大事忍男神は、大国主命や大物主神に通じる神名であり、相当な実力を有した神、すなわち氏族ではあるが、友好はならず、再度の登場はない。
 次の石土毘古神と石巣比売神は夫婦神である。「石」と「土」と「巣(砂)」を加工する氏族、技術者集団であり、縄文の宝玉(翡翠や瑪瑙)と土器、さらにおそらく砂金を用いた宝飾用の貴金属の生産者である。この一族は、天つ神一族の製鉄技術と競合する部分があり、後段の火之夜芸速男神同様に婚姻の申し出を受け入れることができなかった。
 次の大戸日別神は神世七代の神々の一柱に意富斗能地神が登場しており、大戸(意富斗)氏は、若狭国遠敷郡(福井県小浜市)加茂大戸の豪族、大戸氏である。この大戸氏に伊邪那岐命の御子も婿入りし、大戸日別神を名乗る。二度の婚姻を重ねて天つ神一族との友好を固く結んだ結果、大戸氏はしばしば登場する氏族として繁栄する。
 次の天之吹男神は伊邪那岐命の御子で、吹(葺)氏に婿入りしてこの名を名乗るが、子孫は伝わっていない。萱で屋根を葺く技術者集団であり、この後に登場する鹿屋野比売神の出身氏族である鹿屋野(萱野)氏とは縁戚関係であろう。大屋毘古神は大屋(大宅)氏の氏族長であり、大国主命の段で異母兄弟の追跡から大国主命を匿う神として登場し、大屋毘古神の末裔が紀(木)国(和歌山県)に進出している。さらに大屋(大宅)氏は第五代孝昭天皇の孫王子が大宅氏に婿入りしてその後裔が大宅臣を賜るなど、この伊邪那岐命一族との婚姻で繁栄のきっかけを掴む。
 風木津別之忍男神は、季節風や台風等の風向や強弱に通じ居住地選定に欠かせない特殊技能を有する神であるが、天つ神一族との婚姻は成らなかった。
 石土毘古神から風木津別之忍男神までの六柱の神は、縄文の公共建築や祭祀に係る技術者集団である。宝玉とともに装飾が施された縄文土器は祭祀用であり、大戸氏が神殿の壁面を加工して取り付け、屋根を葺くのが吹(葺)氏で、柱を立て棟上げを担当するのが大屋氏、風木津氏は風の流れを読み土地を選定する役割である。すると大事忍男神は施工管理の責任者、各技術者集団のまとめ役、大工の棟梁であるとともに一族を率いる族長であろう。
 次の大綿津見神は大物である。海神であり、縄文の海の民を支配する神である。大綿津見神、すなわち綿津見氏との友好は、天孫天津日高日子番能邇邇芸命(あまつひこひこほのににぎのみこと)の御子で山幸毘古の天津日高日子穂穂手見命(あまつひこひこほほでみのみこと)が綿津見氏の娘、豊玉毘売を妻とするまで待たなければならない。天津日高日子穂穂手見命(山幸毘古)と豊玉毘売の間に天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあへずのみこと)が誕生し、その御子が豊玉毘売の妹で叔母の玉依毘売命を妻に迎え、初代神武天皇こと神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)が誕生する。神武天皇東遷では、二世代にわたり綿津見氏と婚姻を重ねたことで、航海の安全が保障された。
 綿津見氏との友好の前段として、その配下の神々、まず港の神である水戸神との婚姻が成立する。水戸神である速秋津氏に婿入りするが、宗家の秋津氏は、別天つ神(ことあまつ)五柱の二番目、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)や三番目の神御産巣日神(かみむすひのかみ)とも婚姻を重ね、国生みの段でもさらに婚姻が成立する。その秋津氏の支族である速秋津氏との婚姻も成立し、その娘である速秋津比売を妻に迎え、速秋津日子を名乗る。速秋津日子は港湾関係技術者として難波津の管理を任されるのである。秋津氏は大和国の豪族であるから、この秋津氏が支配下に置く港といえば、大和から瀬戸内海に通じる河内潟の港になる。神名に「速」が冠していることから、この港は干満の差で水流が速い、河内潟から大阪湾への出口、難波津であることも分かる。ここを押さえることによって大和国の玄関口、生駒山山麓の日下港に自由に上陸することができる。初代神武天皇もこのルートから大和入りを目指した。
 港湾の管理者である速秋津日子には、港湾管理に必要な専門技術者がいて、「河海に因りて」とあるように河川と海上に分かれ、役割を分担した管理体制を敷いている。その技術者が次の神々である。沫那芸神の妻が沫那美神で、湾に流入する河口部を監視している。「沫(あわ)」すなわち水泡の状態で水流の量と速さを計り、流入量の急変に備えている。
 頬那芸神の妻が頬那美神で、海上の監視を受け持ち、「頬(つら)」すなわち海面に現れる波の変化によって、航行の安全を図る。
 天之水分神は国之水分神に婿入りした伊邪那岐命の御子である。「水分」は河川の水流を分岐させる場所で、洪水を予防するための人口運河である。流量が急増し、氾濫の危険がある場合には、分岐した人口運河に水を逃がすのである。その管理を担うのが天之水分神である。河川の分岐点については現在、「分水」と呼ばれている。
 伊邪那岐命の御子が国之久比奢母智神を妻に迎え、天之久比奢母智神と称した。港には浅瀬があり、その浅瀬の位置を示すのが澪標であるが、「久比奢母智」も浅瀬の位置を知らせ、航海の安全を図っている。「久比奢母智」の「久比」は「杙(くひ)」のことで、この文字は「角杙神」「活杙神」として既出である。杙に目印(座・奢)を取り付け(持ち・母智)て浅瀬に立て、標識にしたのであろう。
次に風の神が登場する。志那都比古神である。「志」は「息、風」であるから、風の発生原因を知り、風向きを読む気候予報士である。航海の安全は風の強さにも左右され、風向きを予測することは航海の要、志那都比古神はその役目を担っていた。
 次の木の神は当然、木材を船に加工、製造する船大工で、当時にあっては鉄器の製造加工とともに最先端技術であり、港はまた造船所を兼ねていた。神名の久久能智神の「久久」は「茎」の意であり、木の幹の部分を指している。幹の部分が造船には必要であり、木の材質を知り尽くした神である。「久久」が「茎」を表す用例には、「茎立(くくた)ち」や『万葉集』巻一四・三四〇六「可美都氣野 左野乃九久多知 乎里波夜志 安礼波麻多牟恵 許登之許受登母(上毛野佐野の九久多知(ククタチ)折りはやし吾れは待たむゑ今年来ずとも)」があり、縄文時代には「茎」を「くく」と発音しており、後に「くき」に変化した。
 速秋津日子から久久能智神の神々まで、港湾管理の実態を神話の形で見事に描写している。この神々もまた縄文の倭人、海の民の神々であり、精神文化に加え物質文明が発達し、組織された集団であるから天つ神一族との間に対等以上の優位な婚姻が成立し、伊邪那岐命の御子が次々と婿入りするのである。
 海の倭人、すなわち海洋民族である天つ神一族は最初に同族の海と河川の神々と婚姻を結ぶ。この婚姻を経て次は、内陸の神々である縄文の山の倭人との婚姻による友好国づくりが始まる。山の支配者が山の神、大山津見神で、温暖な縄文時代は、山麓から山頂にかけて生活圏としており、主食の炭水化物、木の実が生い茂っていた。温暖な縄文時代も徐々に寒冷化に向かい、植生の変化とともに、山の高台から平野部に生活圏が移る。高台の山の民が平野部に移動し、平野部の民と共存共栄するための方策が婚姻を結ぶことである。山の倭人の山津見氏が妻に迎えたのが野の神であり野の支配者であり屋根を葺く萱の生産者でもある、鹿屋氏の娘、鹿屋野比売神、別名は野椎神である。山の神と野の神の婚姻によって共存が図られ、誕生したそれぞれの神々によって住み分けがなされたタイミングで天つ神一族が登場し、さらに婚姻を重ね、「山野に因りて」とあるように、山と野のそれぞれの地域を住み分けて支配したが、天つ神一族が婚姻を結んだ豪族は、山峡の狭い土地で活動する豪族であった。山の神の最後に登場する鳥之石楠船神がその理由を明示している。海洋民族である天つ神一族が人員や物資を大量にかつ高速に輸送するためには、大型船が最適であるが、その建造には大量の巨木を要する。その巨木を確保するために山の神一族との婚姻を重ねるのである。
 国之狭土神に婿入りした御子が天之狭土神を名乗り、山に囲まれた盆地(狭土)を支配する。次に国之狭霧神に婿入りした御子が天之狭霧神の神であり、川沿いの狭い平地、川霧が絶えない土地を支配し、切り出した巨木を渓流に流して運搬する。国之闇戸神に婿入りした御子が天之闇戸神であり、巨木が鬱蒼と生い茂ったほの暗い山の入り口の土地を支配するが、この地こそ巨木の宝庫である。
 次の大戸惑女神は、先に建築の技術者集団として登場した大戸氏の娘である。御子が婿入りし、大戸惑子神を名乗る。大戸氏は大きな扉を製造するための材料を確保し、森林を管理している山の民である。
 さて次に登場するのが鳥之石楠船神、別名は天鳥船である。別名に「天」が冠せられ、伊邪那岐命の御子が婿入りして名乗ったことが知られるが、天つ神一族も船舶の新造、修繕のための木材と造船技術を必要としたからである。後段の出雲の国譲りでこの施策が生きる。
 ここでまた大宜都比売神が登場する。粟(阿波)国(徳島県)の豪族、大宜都氏の娘である。国生みの段ですでに伊邪那岐命の御子が大宜都比売神を妻に迎え、大宜都氏に婿入りしていた。この大宜都氏と再度婚姻を結ぶということは、姉妹を妻に迎えたか、あるいは、先に婿入りした御子との間に娘が誕生し、その娘(姪)と別の伊邪那岐命の御子との婚姻が成立したものか。いずれにしろ大宜都氏と伊邪那岐命一族との縁は深く、強く、須佐之男命が天つ国を追放された際に最初に頼ったのがこの大宜都比売であるから、天つ神一族にとって瀬戸内海から熊野灘に抜ける阿波国(徳島県)沖は、海上交通の要衝として欠くことのできない拠点であったことが理解できる。それだからこそ鳥之石楠船神と並べて大宜都比売を登場させたのであろう。
 天つ神一族のここまでの事績では、融和政策が功を奏し、縄文の倭人との間に友好関係を築くことができたが、次に登場する鉄の製錬、鍛造の専門技術者集団との間では、友好どころか闘争に発展してしまう。同業の天つ神一族との間には互いに補完し合い共存する可能性がそもそもなく、敵対関係にならざるを得ない。
 これから登場する火之夜芸速男神は、さらに二つの名を持つ特別な存在である。その一つが火之炫毘古神、そしてもう一つが火之迦具土神である。この神を生んで伊邪那美命は崩御されるが、実際は火之夜芸速男神との闘争で争乱に巻き込まれ、殺されたのであろう。
 この火之夜芸速男神は、出雲国の古志で製鉄を行うテクノクラート一族、古志氏の族長である。古志は出雲国神門郡古志郷(島根県出雲市知井宮町、古志町、下古志町一帯)で、神戸川沿いに位置している。古志氏の製鉄技法は、砂鉄を原料にしたたたら製鉄であり、天つ神一族の鉄鉱石を原料にする製鉄技術には到底及ばない。神戸川は上流で斐川と合流し、砂鉄の産出地である。
 須佐之男命が天つ国を追放され、出雲の鳥髪(船通山)に降り立ち、大山津見神の御子、足名椎神(あしなづちのかみ)に出会い、娘の櫛名田比売(くしなだひめ)を妻に迎えるが、その条件が八岐大蛇(やまたのおろち)退治であった。八岐大蛇は高志(古志)に盤踞しており、大蛇の尾から「都牟羽大刀(つむはのたち)」(草薙剣)を得た。八岐大蛇こそがたたら製鉄一族、古志氏の棟梁であり、火之夜芸速男神の末裔である。
 これまで見てきたように、神々の集団の冒頭に登場する神がその一族の氏の長者であった。大事忍男神は宮大工の棟梁、石土毘古神は工芸品制作集団の棟梁、速秋津日子は港湾関連一族の棟梁、そして火之夜芸速男神はたたら製鉄技術集団の棟梁である。火之夜芸速男神の他の二つの名を総合すると、その属性は、製鉄に不可欠の強力な火力を操り、鉄を溶かす炉と溶けた銑鉄を冷やし固める土枠の土を加工する科学技術者である。この技術者集団には、棟梁の配下として専門の職人が存在する。
 まず金山毘古神は文字通り、鉱山採掘の技術者である。鉱山といってもたたら製鉄における鉱山は、花崗岩の山である。花崗岩を切り出して砕き、斐川に流して沈殿した鉄鉱物を取り出す技術者のことである。次の波邇夜須毘古神、波邇夜須毘売神の夫婦神は、波邇(埴)すなわち溶鉱炉のような高熱に耐える粘土を管理する技術者であり、弥都波能売神は弥都(水)を管理し、真っ赤に焼けた鉄塊を冷やし固める女性技術者である。
 最後の神、和久産巣日神には神名に天つ神一族の証である「日」が含まれていることから、火之夜芸速男神との闘争に発展する以前に、伊邪那岐命の御子が婿入りして和久産巣日神と称し、次の豊宇気毘売神を儲けている。この豊宇気毘売神は、豊国(大分県)の豊氏と加賀国加賀郡(石川県かほく市宇気)の宇気氏の間に誕生した夫(豊宇気氏)に嫁ぎ、この神名で通称された。豊宇気毘売神は天孫降臨の場面でも「豊由気神(とゆけのかみ)」として登場する。豊宇気氏一族の娘の意味で豊由気神と通称されたのである。豊宇気毘売神の祖母である天照大御神が祀られている伊勢神宮の外宮に祀られた最初の斎宮であり、天つ神一族との縁は途絶えなかった。

2022.03.27 『古事記』系図

「3 国生み」までの系図をアップしました。

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2022.03.27 3 国生み

是に天つ神諸(もろもろ)の命(みこと)以(も)ちて、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、二柱の神に、
「是の多陀用弊流(ただよへる)国を修(おさ)め理(つく)り固め成せ。」
と詔(の)りて、天の沼矛(ぬぼこ)を賜ひて、言依(ことよ)さし賜ひき。故(かれ)、二柱の神、天の浮橋に立たして、其の沼矛を指し下ろして画(か)きたまへば、塩許々袁々呂々邇(しほこをろこをろに)画き鳴(な)して引き上げたまふ時、其の矛の末(さき)より垂(しただ)り落つる塩、累(かさ)なり積もりて島と成りき。是れ淤能碁呂島(おのごろじま)なり。
その島に天降(あまくだ)り坐(ま)して、天(あめ)の御柱(みはしら)を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。是(ここ)に其の妹(いも)伊邪那美命に問曰(と)ひたまはく、
「汝(な)が身は如何(いか)にか成れる。」
ととひたまへば、
「吾(あ)が身は、成り成りて成り合はざる処一処(ところひとところ)あり。」
と答白(こた)へたまひき。爾(ここ)に伊邪那岐命詔(の)りたまはく、
「我が身は、成り成りて成り余れる処一処あり。故(かれ)、此(こ)の吾が身の成り余れる処を以ちて、汝が身の成り合はざる処に刺し塞(ふた)ぎて、国土(くに)を生み成さむと以為(おも)ふ。生むこと奈何(いかに)。」
とのりたまへば、伊邪那美命、
「然(しか)善(よ)けむ。」
と答曰(こた)へたまひき。爾(ここ)に伊邪那岐命詔りたまひしく、
「然らば吾れ汝(いまし)と是(こ)の天の御柱を行き廻(めぐ)り逢ひて、美斗能麻具波比(みとのまぐはひ)為(せ)む。」
とのりたまひき。如此(かく)期(ちぎ)りて、乃(すなは)ち
「汝(いまし)は右より廻り逢へ、我(あれ)は左より廻り逢はむ。」
と詔りたまひ、約(ちぎ)り竟(を)へて巡る時、伊邪那美命、先に
「阿那邇夜志(あなにやし)、愛(え)、袁登古袁(をとこを)。」
と言ひ、後に伊邪那岐命、
「阿那邇夜志(あなにやし)、愛(え)、袁登売袁(をとめを)。」
と言ひ、各(おのおの)言ひ竟(を)へし後、其の妹に告曰(つ)げたまひしく、
「女人(をみな)先に言へるは良からず。」
とつげたまひき。然(しか)れども久美度邇(くみど)興(おこ)して生める子は、水蛭子(ひるこ)。此の子は葦船(あしぶね)に入れて流し去(う)てき。次に淡島(あはしま)を生みき。是(こ)も亦、子の例(たぐひ)には入れざりき。
是に二柱の神、議(はか)りて伝(い)ひけらく、
「今吾が生める子良からず。猶(なほ)天つ神の御所(みもと)に白(まを)すべし。」
といひて、即ち共に参(まゐ)上りて、天つ神の命(みこと)を請(こ)ひき。爾(ここ)に天つ神命(みこと)以(も)ちて、布斗麻邇邇(ふとまにに)卜相(うらな)ひて、詔りたまひしく、
「女(おみな)先に言へるに因りて良からず。亦、還り降りて改め言へ。」
とのりたまひき。故(かれ)爾(ここ)に反(かへ)り降りて、更に其の天の御柱を先の如く往き廻(ねぐ)りき。是に伊邪那岐命、先に
「阿那邇夜志、愛、袁登売袁。」
と言ひ、後に妹伊邪那美命、
「阿那邇夜志、愛、袁登古袁。」
と言ひき。如此(かく)言ひ竟(を)へて御合(みあひ)して、生める子は、淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま)。次に伊予之二名島(いよのふたなのしま)を生みき。此の島は、身一つにして面(おも)四つ有り。面毎に名有り。故、伊予国(いよのくに)は愛比売(えひめ)と謂(い)ひ、讃岐国(さぬきのくに)は飯依比古(いひよりひこ)と謂ひ、粟国(あはのくに)は大宜都比売(おほげつひめ)と謂ひ、土左国(とさのくに)は建依別(たけよりわけ)と謂ふ。次に隠伎之三子島(おきのみつごのしま)を生みき。亦の名は天之忍許呂別(あめのおしころわけ)。次に筑紫島(つくしのしま)を生みき。此の島も亦、身一つにして面四つ有り。面毎に名有り。故(かれ)、筑紫国(つくしのくに)は白日別(しらひわけ)と謂ひ、豊国(とよのくに)は豊日別(とよひわけ)と謂ひ、肥国(ひのくに)は建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)と謂ひ、熊曾国(くまそのくに)は建日別(たけひわけ)と謂ふ。次に伊伎島(いきのしま)を生みき。亦の名は天比登都柱(あめひとつはしら)と謂ふ。次に津島(つしま)を生みき。亦の名は天之狭手依比売(あめのさでよりひめ)と謂ふ。次に佐度島(さどのしま)を生みき。次に大倭豊秋津島(おほやまととよあきづしま)を生みき。亦の名は天御虚空豊秋津根別(あめのみそらとよあきづねわけ)と謂ふ。故、此(こ)の八島(やしま)を先に生めるに因りて大八島国(おほやしまぐに)と謂ふ。
然(しか)ありて後、還へり坐(ま)す時、吉備児島(きびのこじま)を生みき。亦の名は建日方別(たけひかたわけ)と謂ふ。次に小豆島(あづきじま)を生みき。亦の名は大野手比売(おほのでひめ)と謂ふ。次に大島を生みき。亦の名は大多麻流別(おほたまるわけ)と謂ふ。次に女島(ひめじま)を生みき。亦の名は天一根(あめひとつね)と謂ふ。次に知訶島(ちかのしま)を生みき。亦の名は天之忍男(あめのおしを)と謂ふ。次に両児島(ふたごのしま)を生みき。亦の名は天両屋(あめふたや)と謂ふ。〈吉備児島より天両屋島まで併せて六島。〉

 約4,000年前に始まった地球規模の寒冷化により、北方民族が食料を求め南下を開始し、食料争奪戦に勝ち残るために古代国家が成立する。その画期は、紀元前221年の秦の建国である。それまで縄文の倭人が居住していた朝鮮半島にも燕国の遺民が南下して同226年ころ衛氏(えいし)朝鮮が建国、その後、同37年には高句麗が建国し、大陸からの侵略に対抗する。そして朝鮮半島中部でも建国の動きがあり、3世紀の邪馬台国の時代には、三韓が建国し、朝鮮半島に国家が乱立した結果、攻防の時代に突入する。こうした東アジア情勢下、我が日本国は、日本海という天然の要塞に守られるという地政学上の好条件に恵まれながらも天つ神一族の奮闘により紀元前37に建国した高句麗と同時期かそれよりも早くに初代神武天皇により統一国家が建国される。
 大陸情勢に敏感にならざるを得ない朝鮮半島の縄文の倭人である天つ神一族が大陸の侵略に晒されている祖国日本の危難を救うべく最新技術を携えて帰還し、出雲国に上陸したのが神話の始まりである。
 国生み神話は統一国家建設の第一歩であり、淤能碁呂島(おのごろしま)から開始される。この淤能碁呂島は、後に仁徳天皇が淡路島に行幸され国見をした際の詠歌に詠まれている。

 おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば 淡島 自凝島(おのごろしま)
 檳榔(あじまさ)の島も見ゆ 放つ島見ゆ

の「自凝島」がその島である。淡路島の岬に立って、河内平野を一望した際に目に入った島々が自凝島であり淡島、檳榔島であるが、無名の離れ小島も見える。
 淡路島の生石(おいし)岬展望台から対岸の紀伊半島を望むと半島の先端に淡嶋神社がある。この半島を淡島とすれば、その手前に友ヶ島と地ノ島があり、この二島のどちらかが檳榔島であろう。一方、目を四国側に転じると自凝神社が鎮座する沼島があり、淤能碁呂島に該当しよう。
 天つ神一族の族長として伊邪那岐命が最初に上陸したのが淤能碁呂島(沼島)である。ここを活動拠点に瀬戸内海沿岸の小国を、最新科学技術の鉄器と婚姻政策を武器に糾合するのである。紀元前221年の秦建国の時代は青銅器文明であったが、その後の漢の時代は鉄器文明に移り、同108年、朝鮮半島に楽浪郡他3郡が置かれ、半島産出の鉄鉱石を原料に製鉄が行われる。天つ神一族も交易により製鉄技術と鉄器を入手するのである。この鉄製品は、武器としてよりも灌漑治水の土木事業を伴う水田稲作に革命をもたらすのである。
 淤能碁呂島(沼島)を活動拠点とした次の目的地は、淡道之穂之狭別島、すなわちお隣の淡路島である。この島は穂之狭氏が支配しており、伊邪那岐命の御子が婿入りし、穂之狭別として氏族を継承する。この後次々と婚姻による友好関係を結ぶが、瀬戸内海沿岸で友好国を築いたことが、後の神武東遷で物をいうのである。
 次に淡路島から四国に渡る。四国はそれぞれの国に現在の県名になるような豪族がいたが、伊邪那岐命の御子が婚姻を結ぶことができたのは、伊予国(愛媛県)の豪族、伊予氏とその支族である。御子の愛比売(愛媛県)は伊予氏に嫁入りし、神名はその愛称であり国名にもなったと思われる。同様に讃岐国(香川県)の豪族、飯依氏に婿入りするが、「飯依」は宗家の「伊予」を転化させ、氏族名にしている。御子が婿入りし飯依比古を名乗る。讃岐国の讃岐氏は、第九代開化天皇の孫王子の垂根王が婿入りした氏族として登場している。粟国(徳島県)の豪族、大宜都氏に御子が嫁入りして大宜都比売と通称される。土左国(高知県)の豪族である建依氏の「建依」も「伊予」を転化させて氏族名にしている。婿入りして建依別を名乗る。
 四国の国々との友好を果たし終わると一転して、本国への最初の上陸地である出雲国沖の隠伎の三子島(隠岐の島)に舞い戻る。朝鮮半島との交易で往来の安全を確保するためである。隠岐の島でも婚姻が成立し、婿入りして天之忍許呂別と名乗るが、天つ神一族を示す「天」が含まれ、隠岐の島が天つ神一族にとって特別な島、朝鮮半島との海上交易の要衝であることが分る。後段の壱岐島、対馬も同様である。
 隠岐の島から九州に渡る。九州を筑紫島と称するのは四国同様、現在の筑紫平野一帯を拠点にしていた筑紫(都久志)氏が九州全域を支配下に置いていたが、一族が四か国に分かれ分割統治する。伊邪那岐命はそれぞれの国と婚姻を結び、御子がそれぞれの国の後継者となったことで名前に「日」が付けられる
 筑紫国を継承したのが白日別である。「白」は五行思想で西の方角に相当し、九州の西部を支配したことから氏族名が白日氏となった。須佐之男命の御子である大年神と怒比売の間に白日神が誕生しているが、筑紫の白日氏に婿入りしたことが分る。
 豊国は豊氏の国である。豊氏はすでに出雲国の出雲氏と婚姻関係にあり、豊雲比売が誕生し、この娘に伊邪那岐命の五代の祖である豊雲野神が婿入りしている。こうした血縁にある豊氏に御子が婿入りしてその後継となり、豊日別と名乗る。豊国は豊前、豊後を合わせた国で、大分県と北九州市までの周防灘に面した地域である。
 次の肥国は後の肥前、肥後とは異なり、肥国を継承した建日向日豊久士比泥別の神名から知られるのは、肥国はもともと豊国に含まれ、「日に向かう豊国」として、豊国から分離独立、肥国からさらに日向国へと国名が変遷し定着する。火の山、阿蘇山を背後に抱え、肥国は本来「火国」であったが、「火」に「肥」の文字を当てたために混乱が生じた。肥国を支配した氏族は火(肥)氏であるが、後に日向氏として歴史に登場する。
 熊曾国は、熊本県の球磨郡と鹿児島県の曾於郡を合わせた国であるが、それぞれに球磨族、曾於族と呼ばれる縄文の倭人の先住地である。その両氏族を一国に統一し、熊曾国として支配下に置いたのが、婿入りした伊邪那岐命の御子で建日別と名乗った。
 さらに島巡りは続く。次の島は長崎県沖の伊伎島(壱岐)である。この島と次の津島(対馬)、さらに大倭豊秋津島(大和国)は、隠岐の島同様、最重要国として、その後継支配者である伊邪那岐命の御子の名に、「天」が冠せられている。
 伊伎島(壱岐島)には御子が婿入りして天比登都柱と名乗り、津島(対馬)には嫁入りして天之狭手依比売と通称され、両島は、朝鮮半島とその先の大陸との往来に欠かせない海上交易の要衝である。日本海を北上して佐度島(佐渡ヶ島)に到るが、婚姻関係を結ぶことなく、大倭豊秋津島(大和国)に直行する。
 この土地、大倭豊秋津島(大和国)は奈良湖の時代であるから、国の中心の奈良盆地は湖であり大和三山が島として湖水に浮かんでいた。湖畔は葦で覆われ湿地帯が広がっている。水田稲作の好適地であり、豊かな秋の実りをもたらす国の意が大倭豊秋津島には込められている。天つ神一族は朝鮮半島出立前から大倭豊秋津島(大和国)の存在を知っており、朝鮮半島と大和国との間で婚姻が成立していた可能性が高い。「別天つ神」五柱の四番目に誕生した宇摩志阿斯訶備比古遅神がその婚姻で誕生した神である。神名の「阿斯訶備(あしかび)」は「葦芽(あしかび)」であるから、葦が豊かに生い茂る国(大和国)の血を引く御子の意で「葦芽(阿斯訶備)」と称されたのであろう。後裔に宇麻志麻遅命が出て大和国統治者として君臨していたが、神武天皇に服従を誓い、大和国譲りが実現する。
 天つ神一族とすでに婚姻関係にある秋津氏が伊邪那岐命の御子とも婚姻を重ね、天御虚空豊秋津根別として氏族を継承する。
 秋津氏とは「別天つ神」五柱の二番目の神、高御産巣日神も婚姻関係にあり、萬幡豊秋津師比売命を儲けている。この娘が天照大御神の孫、天孫天津日高日子番能邇邇芸命(あまつひこひこほのににぎのみこと)と結婚して誕生した御子が山幸毘古(やまさちびこ)の天津日高日子穂穂手見命(あまつひこひこほほでみのみこと)で別名が虚空津日子(そらつひこ)である。そして天津日高日子穂穂手見命(虚空津日子)の孫、初代神武天皇が大和国の大物主神(おおものぬしのかみ)の娘、伊須気余理比売(いすけよりひめ)を妻に迎えることによって、すなわち大和に婿入りするのであるが、天つ神一族の悲願である祖国統一が達成される。
 次の神生みのために出雲国に一旦戻ることになるが、途中の島々で先住倭人との間に婚姻を重ねる。吉備児島は岡山県の児島半島であるが、かつては島嶼群であった。やはり瀬戸内海海上交易の要衝であり、この島を支配していた吉備氏に婿入りし、建日方別と名乗る。次の小豆島は香川県の離島で、支配者の大野手氏に嫁し、大野手比売と通称される。次の大島は、山口県の周防大島である。支配者の大多麻流氏に婿入りした。女島は大分県東国東郡姫島である。この後に登場する知訶島、両児島を含む三島の後継支配者名には「天」が付され、天つ神一族がその領有にこだわり、内航、外航の最重要拠点として認識していたことが分る。女島を後継支配したのが天一根である。
 次の知訶島は長崎県五島列島で、天之忍男が支配し、次の両児島は五島列島のさらに南に位置する同県男女群島(だんじょぐんとう)、その支配者は天両屋である。
 長崎県五島列島は東アジア大陸に通じる玄関口である。朝鮮半島への玄関口が出雲国の隠岐の島と筑紫国の壱岐島と対馬であるとすれば、直接大陸に渡航する海上交通・交易の要衝が五島列島である。
 この国生み、島々をめぐる航海の旅は、海上交易の安全を確保し、朝鮮半島と大陸へのルートを保持するとともに、統一国家を建国するという最終目的達成に向けた楔を打つ事業であった。初代神武天皇はこの計画に沿って大和入りを果たす。
 天つ神一族が各国との婚姻による友好関係を築けた背景には、天つ神一族の特殊技能がある。朝鮮半島と出雲国を窓口にした交易で、鉄器とその加工材料である鉄板を供給し、さらに製錬鍛造技術を有した技術者集団であった。天つ神一族が日本本土に渡ったこの時代、紀元前200年ころの西日本は、新石器の縄文時代から、青銅器時代を経ずに鉄器時代が突如として訪れた稀有な時代である。その潮流に乗って時代を切り開いたのが天つ神一族といえる。

2022.03.22 2 神々の実体と出自ー神世七代ー

次に成れる神の名は、国常立神(くにのとこたちのかみ)。次に豊雲野神(とよくものかみ)。此の二柱の神も亦、独神(ひとりかみ)と成り坐(ま)して、身を隠したまひき。
次に成れる神の名は、宇比地邇神(うひぢにのかみ)、次に妹(いも)須比智邇神(すひちにのかみ)。次に角杙神(つのぐひのかみ)、次に妹活杙神(いくぐひのかみ)。次に意富斗能地神(おほとのちのかみ)、次に妹大斗乃弁神(おほとのべのかみ)。
次に於母陀流神(おもだるのかみ)、次に妹阿夜訶志古泥神(あやかしこでのかみ)。次に伊邪那岐神(いざなぎのかみ)、次に妹伊邪那美神(いざなみのかみ)。
  上(かみ)の件(くだり)の国常立神より下(しも)、伊邪那美神より前(さき)を併(あは)せて神代(かみよ)七代(な
  なよ)と称(い)ふ。


 「別天(ことあま)つ神」の五柱の神々の妻は、その存在が伝わらないが、次に誕生する「神世(かみよ)七代(ななよ)」の神々には、最初の二代を除き妻が存在している。
 「別天つ神」の五番目、最後の神が天常立神(あまのとこたちのかみ)で、「神世七代」の最初の神が国常立神(くにのとこたちのかみ)である。国常立神の「国」は、「国(くに)つ神」の「国」でもあり、国つ神は日本本土の倭人の神の総称である。神世七代の時代になってはじめて、天つ神の天常立神と国つ神の国常立神の婚姻が成立し、誕生したのが次の豊雲野神(とよくものかみ)である。天つ神一族には、日本本土に帰還しても地縁血縁が全くない。そこで行く先々の土地の豪族と婚姻による血縁関係を結び拠点を築くのである。
 豊雲野神もまた、豪族と血縁を結ぶが、この時代になると氏族名が伝承され、予測できるようになる。豊雲野神の「豊」と「雲」は、それぞれ豊国(大分県)と出雲国(島根県)の「豊」と「雲」であり、豊氏と出雲氏の婚姻で誕生した娘(豊雲比売)を妻にし、婿入りした結果、豊雲野神と通称される。『古事記』に登場する女性の名前は、大王(おおきみ)や天皇の正妻で、太子を儲けるような特別な存在でない限り記されない。父親や夫の氏族名に「比売」を付すにとどまっている。
 日本海側の出雲国と九州の豊国が交流し、婚姻まで結ぶことがこの時代にありうるかと言えば、朝鮮半島はおろか遠く会稽まで進出していた海洋民族でもある倭人にとって国内の往来は容易であるし、東アジア大陸の玄関口のひとつ出雲国は、大陸との交易の結果として、国内流通に携わることで各地に拠点を設け、その地の豪族と婚姻を結ぶことも当然ありうる。豊雲野神は出雲国の豪族に婿入りし、次の宇比地邇神(うひぢにのかみ)を儲ける。
 宇比地邇神もまた豪族の「宇比地」氏に婿入りし、宇比地邇神と通称されるが、一方で新たに須比智邇神(すひちにのかみ)を妻に迎える。出産が母体の危険を伴い、無事出産できたとしても乳幼児死亡率の高い古代にあっては、多くの妻を持ちより多くの子孫を残さなければ血統が断絶してしまう。宇比地邇神以前の神々も多くの女性と婚姻重ねて多くの子孫を儲けた結果、今日まで営々と皇統が継承されているが、皇統に繋がる女性のみが伝承され、宇比地邇神以前の神々の妻は、あまりにも古く伝承さえもされていない。
 宇比地邇神の「比地」は「土(ひぢ)」、妻の須比智邇神の「比智」も同じく「土(ひぢ)」である。須比智邇神の「須」が「砂(すな)」の「す」であるとすれば、宇比地邇神の「宇」は「烏(う)」に通じ、黒土の「黒」を表しているのであろう。河川流域の高台、肥沃な土地を耕作する農耕氏族「宇比地」氏に対し河川の砂、すなわち砂鉄を採取し、製鉄に従事する技術者集団が「須比智」氏である。宇比地氏と須比智氏は「土(ひぢ)」の一族として同族であり、宇比地邇神の新たな妻は同族から迎え、この血縁が次に繋がる。
 宇比地邇神と妻の須比智邇神の間に生まれた御子が角杙神(つのぐいのかみ)で、この御子も「角杙」氏に婿入りするがやはり新たな妻、活杙神(いくぐいのかみ)を「活杙」氏から迎える。この二柱の神の名称に用いられている文字「角」「杙」「活」は神々や人物名の一部にしばしば用いられている文字である。「角(つぬ)」は「都怒」や「都奴」として、「杙(くひ)」は「咋(くひ)」として、「活(いく)」は「活玉比売」等で登場する。「角(つぬ)」は豪族名として分かりやすい。越前国(福井県)の「角鹿(つぬが)」(敦賀)を地盤とする豪族である。「杙(咋)」は越前国の隣国、能登国(石川県)に羽咋郡(羽咋市)として地名に残り、杙(咋)氏は、羽咋郡を本拠地にする豪族であろう。角杙氏と活杙氏は同族であるが、活杙氏の「活」が「生」に通じるとすれば、「活杙」から「生咋(ぷくひ)」に転じ、さらに「福井(ふくい)」に転化し、活杙氏の拠点はまさに現福井市ということになろう。角杙神と活杙神の間に誕生したのが次の意富斗能地神(おほとのちのかみ)である。
 意富斗能地神も「意富斗」氏に婿入りし、大斗乃弁神を妻に迎える。「意富斗」は「大戸」で若狭国遠敷郡(福井県小浜市)加茂大戸の豪族、大戸氏であろう。本来は意富斗能地神を祭祀したであろう古社の彌和神社(みわじんじゃ)が鎮座している。意富斗能地神の「地」は父神の宇比地邇神から一文字が取られ、正妻の大斗乃弁神の「弁」と対をなすことから女性の「弁」に対し「地」は、男性を意味していると思われる。意富斗能地神には正妻の大斗乃弁神に於母陀流神(おもだるのかみ)が誕生する。
 於母陀流神も「於母陀流」氏に婿入りする。於母陀流氏は越前国(福井県)今立郡池田町尾緩(おだるみ)の豪族であろうか。「於母陀流」の「母(も)」が脱落し、「流(る)」と「彌(み)」の字形相似により「尾緩(おだるみ)」に転化したのであろう。於母陀流氏に婿入りするものの御子を儲けることができず、新たに妻を迎える。その妻が阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)である。
 阿夜訶志古泥神の神名には出自を示す語がなく、おそらく於母陀流神が最初に迎えた妻の妹であろう。姉には御子が誕生しなかったか、あるいは皇統を継承しなかったので神名が伝承しない。阿夜訶志古泥神の「阿夜訶志古」は、御子の伊邪那岐神(いざなぎのかみ)とその妻伊邪那美神(いざなみのかみ)が結ばれる際の求愛の言葉「阿那邇夜志(あなにやし)、愛袁登売袁(えをとめを)」「阿那邇夜志、愛袁登古袁(えをとこを)」の「阿那邇夜志、愛」に相当し、「なんて素敵な」の意であり、阿夜訶志古泥神の「泥(ね)」は「袁登古袁(をとこを)」に相当し、「阿夜訶志古泥」は「なんて素敵な男性なの」の意となり、伊邪那岐、伊邪那美両神の国生み、神生みの先取りであるとともに、於母陀流神に対して発した妻の求愛の言葉が神名として伝承したのである。
 於母陀流神と阿夜訶志古泥神との間に誕生したのが伊邪那岐神である。伊邪那岐神も伊邪氏に婿入りし、その娘の伊邪那美神と婚姻を結ぶ。
 伊邪氏は品陀和気命(ほむだわけのみこと、第十五代応神天皇)、大雀命(おおさざきのみこと、第十六代仁徳天皇)の両御代に葛城(かつらぎ)氏とともに外戚として政権を争う地位にあった。応神天皇の妻の一人に品陀真若王の長女、高(五百)木入日売命(たかきのいりひめのみこと)がいて三人の御子を儲けているが、末子の伊奢真若命(いざのまわかのみこと)の名称から伊奢氏に婿入りしていることが分るもののその子孫は伝わっていない。伊奢真若命の異母弟が仁徳天皇であり、その母は、高(五百)木入日売命の妹、中日売命(なかひめのみこと)であるから、伊奢真若命も皇位継承の有力候補である。その外戚が伊奢氏であるが、伊奢氏はさらに、応神天皇のもう一人の皇子、伊奢麻和迦王(いざのまわかのきみ)を婿に迎えていながら孫の誕生が伝わっていないということは、皇位継承をめぐる権力闘争に敗れたのであろう。
 伊奢麻和迦王の母は、葛城伊呂売(かつらぎのいろめ)で葛城氏の娘である。伊呂売の同母兄に葛城曽都毘古(かつらぎのそつびこ)がおり、その娘が石日売命(いしのひめのみこと)で仁徳天皇の皇后となり、臣下の娘が皇后という正妻の地位に上った最初である。仁徳天皇と石日売命の長子が大江伊邪本和気命(おおえのいざほわけのみこと、第十七代履中天皇)で、葛城氏は履中天皇の外戚として絶大な権力を誇ったが、第二十一代雄略天皇が葛城氏の血縁にある皇子を根絶する悲劇が起こる。
 履中天皇の諡(おくりな)「大江之伊邪本和氣命」には、「大江」と「伊邪」の氏族名が含まれ、それぞれの娘が入内していたことが考えられる。伊邪氏は応神、仁徳、履中三代にわたり外戚を狙える地位にあったが、実現しないまま歴史から姿を消してしまう。
 さてその伊邪氏であるが、本拠地は北陸の「角鹿(つぬが)」(敦賀)である。伊邪那岐神の三代の祖が角杙神で角鹿の氏族、角氏に婿入りして早くに地盤を築いていた。
 伊邪氏は応神天皇の御世に頭角を現すが、その応神天皇が建內宿弥命(たけうちのすくねのみこと)を伴い角鹿に滞在した際に、夢に「伊奢沙和気大神命(いざさわけのおおかみのみこと)」が現れ、お互いの名前を交換したことが『古事記』中巻にある。この伊奢沙和気大神の命が伊邪氏の祀る氏神で、応神天皇は皇子の一人を伊邪氏に婿入りさせたのである。
 応神天皇は立太子してから即位まで十年を要している。応神天皇誕生から間もなく、異母兄の反乱があり、鎮圧してもなお反対派を一掃できなかった。角鹿に行幸したのは即位の前年であり、還御に際しては、母で摂政の神功皇后が歓迎の宴を盛大に開催している。伊邪氏の支援を取り付け、即位への道を開いたからである。この年に神功皇后は崩御されたが、伊邪氏と葛城氏が応神政権を支えることになる。
 朝鮮半島の故地を出港した天つ神一族は最初、出雲国(島根県)に上陸してその地の豪族、出雲氏と婚姻による友好関係を築き、次に日本海を北上し北陸を目指す。越前国(福井県)の「角鹿(つぬが)」(敦賀)や能登国(石川県)の羽咋郡(羽咋市)、さらに越前国(福井県)今立郡池田町尾緩(おだるみ)の豪族とも婚姻を重ねて北陸の地に拠点を構築する。その北陸で伊邪那岐神が誕生し、妻の伊邪那美神とともに国生みと神生みの旅、すなわち東アジア大陸の強国から大和民族を守り、朝鮮半島を追われた天つ神一族の轍を踏ませないために祖国統一に向けた第一歩を踏み出す。

2022.03.18 1 神々の実体と出自ー別天つ神五柱ー

天地(あめつち)初めて発(ひら)けし時、高天(たかあま)の原に成(な)れる神の名は、天之御中主神(あまのみなかぬしのかみ)、次に高御産巣日神(たかみむすひひのかみ)。次に神産巣日神(かみむすひのかみ)。此(こ)の三柱(みはしら)の神は、並(みな)独神(ひとりかみ)と成(な)り坐(ま)して、身を隠したまひき。
次に国稚(わか)く浮きし脂(あぶら)の如くして、久羅下那州多陀用弊流(くらげなすただよへる)時(とき)、葦牙(あしかび)の如く萌(も)え騰(あが)る物に因(よ)りて成れる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)。次に天常立神(あまのとこたちのかみ)。此の二柱(ふたはしら)の神も亦(また)、独神と成り坐して、身を隠したまひき。
  上(かみ)の件(くだり)の五柱(いつはしら)の神は、別天神(ことあまつかみ)ぞ。

 生前に功績のあった偉人は、亡くなられた後に神社を建立し、神として祀られる場合が少なくない。日露戦争の英雄、東郷元帥や乃木将軍はそれぞれ東郷神社と乃木神社の御祭神として祀られている。明治天皇も当然、明治神宮に祀られているが神となられたことを誰も不思議に思わない。
 日本古代の神々も実際は、生前に大功があり偉大な祖先として祀られたのが始まりであれば、神話は神となられた偉人の実話として信じられ、伝承された物語と言うことができる。神話が実話であるというのには、説明が必要であろう。
 神話には事実である部分とそうではない、虚構が混然一体となっているが、その虚構の部分には真実が隠されており、真実もまた実話である、とするのが基本的な考え方である。神々の最初の神、天御中主神(あまのみなかぬしのかみ)が現実に活躍したのが2,200年前の弥生時代で、そこまで時代が古いと天御中主神の両親や兄弟姉妹等の血縁の記憶も消え、伝承もなく今日に至っている。『古事記』上巻で展開する神々の系譜と神話は、事実として語られることはないが、そこには古代史の真実があり、多分に事実も含んでいるのである。
 「別天神(ことあまつかみ)」として冒頭に登場する五柱(いつはしら)の神々は、全員「独神(ひとりかみ)」として妻もなく子供もいない存在であり、各神々の関係性、すなわち親子なのか兄弟なのかも示されていない。やはり時代が古過ぎるゆえの情報不足であるが、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)や神産巣日神(かみむすひのかみ)は後段でもしばしば登場し、娘や息子を儲けていることが分り、人としての活動の痕跡を残している。
 「別天神」の五柱の神々は、記述された順番に親子関係にあるとみれば、そこですでに最初の系譜が成立する。特別な神々である「別天神」は「天つ国」の神々である。「天つ国」はどこにあるのか。天上にある国とされているが、現実にはあり得ず、まさに事実ではなく、実話とは言い難いが、真実を暗示している。
 2,200年前の弥生時代、東アジア大陸では紀元前221年に秦(しん)の始皇帝が天下を統一し、大陸東北部に位置する燕(えんの)国が滅び、秦の支配を逃れた遺民が朝鮮半島北部に渡り、衛氏(えし)朝鮮を建国する。朝鮮半島にはすでに日本民族の倭人(わじん)が居住しており、朝鮮半島北部にいた倭人が半島南部に追われ、その一部が故郷である日本本土に里帰りし、定住したのが天つ国の人々、天御中主神(あまのみなかぬしのかみ)を首長に仰ぐ一族である。
 天つ国は朝鮮半島の地を指すが、その地を追われた天つ神一行は、祖国日本を大陸の侵略から守り独立国として統一国家を建国するために西日本を中心に世界情勢を説いて回り婚姻によって友好関係を構築し、それが次の国生み神話となって真実を物語る。『古事記』中巻は応神天皇で締めくくるが、その事績の最後に昔話の形で天日矛(あまのひぼこ)が登場する。新羅(しらぎの)国の皇子であるが、妻を追って日本に渡ったとある。「天日矛(あまのひぼこ)」という名称が示唆に富んでいる。朝鮮半島中西部に位置する新羅出身で、名称の冒頭に「天(あま)」が付されており、日本に先行して帰国した天つ神一族と同族であることを示し、天つ神一族が朝鮮半島を故郷にしていたこともわかる。また、「天日矛」には「日」の文字が用いられ、「日の御子」として天つ神一族の末裔であることも示している。神話には「常世の国」という、天上の国でも、あの世でもこの世でもない国があるが、その実態は、天つ神一族の心の故郷であり、理想の国が常世の国、朝鮮半島の地である。
 古く朝鮮半島には、倭人が居住していたことに触れたが、倭人の活動範囲は朝鮮半島にとどまらない。
 倭人が登場する最も古い文献は、王充(おうじゅう)の『論衡(ろんこう)』巻一九「恢国篇(かいこくへん)」に

 成王(せいおう)の時に、越裳(えつしょう)は雉(きじ)を獻(けん)じ、倭人は暢草(ちょうそう)を貢(こう)ず。

の一文がある。成王は中国の古代国家、周の成王であり、時代は、紀元前1,115年から同1,079年である。日本では縄文時代後期に相当し、その当時から倭人(縄文人)は、周に朝貢していたのである。しかしここに登場する倭人は、日本本土に居住する倭人ではない。「越裳(えつしょう)」は倭人と共に朝貢した越裳人のことであり、台湾海峡を挟んだ台湾の対岸、会稽(かいけい)山周辺に居住していた越族の一つで、その周辺に倭人の地が存在していた。時代が下ると会稽山を中心に越国が建国されるが、時代は紀元前600年ころから 同306年で、周の時代からは数百年も新しく、倭人(縄文人)が周に朝貢した頃はまだ、その地に国家はなかった。
 さらに大きく時代は下るが、『魏志倭人伝』に「會稽東冶之東(かいけいとうやのひがし)」という一文がある。『魏志倭人伝』は、邪馬台国(やまたいこく)とその女王、卑弥呼(ひみこ)についての記述であるが、卑弥呼の死去が西暦248年であるから、すでに古墳時代に入っており大和政権成立と時代が重なる。
 その『魏志倭人伝』冒頭には、

 倭人は帯方(たいほう)東南、大海の中に在り。山島に依り国邑(こくゆう)を為(な)す。旧百余国、漢の時、朝見(ちょうけん)する者有り。今、使訳(しやく)通ずる所は三十国。
 (倭人は帯方郡の東南、大海の中にある国である。山や島に居住し国を形成している。かつては百余国が漢の時代に朝貢していたが、今、魏に朝貢している国は三十か国である。)

とあり、魏に朝貢している国々が三十か国列挙され、それらの国々は一国を除き全て、邪馬台国に従属し、卑弥呼の支配下にある。卑弥呼の支配がどの国まで及んでいたか、その境界を示す記述がある。

 女王国より以北、その戸数、道里は略載を得べきも、その余の旁国(ぼうこく)は遠くして絶へ、詳を得べからず。次に斯馬(しま)国有り。次に已百支(いはき)国有り。次に伊邪(いや)国有り。次都支(とき)国有り。次に弥奴(みな)国有り。次に好古都(ほこと)国有り。次に不呼(ぷほ)国有り。次に姐奴(たな)国有り。次に対蘇(つそ)国有り。次に蘇奴(そな)国有り。次に呼邑(ほや)国有り。次に華奴蘇奴(わなそな)国有り。次に鬼(き)国有り。次に為吾(いご)国有り。次に鬼奴(きな)国有り。次に邪馬(やま)国有り。次に躬臣(くぜん)国有り。次に巴利(ぱり)国有り。次に支惟(きゆい)国有り。次に烏奴(おな)国有り。次に奴(な)国有り。ここは女王の境界尽きる所。

 「女王国」すなわち邪馬台国の北に位置する国々については、国の大きさを示す人口や路程、距離を略記できるが、その南側の国々については「遠くして絶へ、詳を得べからず。」とあり、遠方過ぎて詳細不明のため、人口や路程、距離を記せないと断って国名だけを列挙し、上記の二一か国が「女王の境界尽きる所」であり、支配の及ぶ国々である。さらに続けて、

 その南、狗奴(こな)国有り。男子が王と為る。その官は狗古智卑狗(ここちぴこ)有り。女王に属さず。郡より女王国に至る。万二千余里。男子は大小無く、皆、黥面(げいめん)文身(ぶんしん)す。古より以来、その使中国に詣(いた)るや、皆、自ら大夫(たいふ)と称す。夏后(かこう)少康(しょうこう)の子は会稽(かいけい)に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍(こうりゅう)の害を避く。今、倭の水人(すいじん)は沈没して魚蛤(ぎょこう)を捕るを好み、文身は、亦、以って大魚、水禽(すいきん)を厭(はら)う。後、稍(しだい)に以って飾と為る。諸国の文身は各(それぞれ)に異なり、或いは左し、或いは右し、或いは大に、或いは小に、尊卑の差有り。その道里を計るに、まさに会稽、東冶(とうや)の東に在るべし。

と、まず卑弥呼に従属しない唯一の国、「狗奴(こな)国」の説明があり、狗奴国の風俗習慣の記述が続く。ここに中国最古の王朝である夏の第六代皇帝「夏后少康」に言及し、その庶子である無余(むよ)が会稽に封じられ、「郷にいては郷に従え」そのまま、会稽の風俗である、「断髪文身」を自ら実践している。「文身」は、水難除けに全身に入れ墨を施すことである。
 さて卑弥呼に服従しない「狗奴国」であるが、その風俗は、夏の時代の会稽の風俗同様、「黥面文身」とあり、全身にとどまらず「黥面」、顔面にも入れ墨をしているのである。
 その「狗奴国」の所在地は、「まさに会稽、東冶の東」の位置であり、「東冶」は現在の中国福建省福州市に該当し、東シナ海を隔てたその真東には、沖縄県が「まさに」その位置にある。三世紀半ばの古墳時代、狗奴(こな)国すなわち沖縄の倭人の風俗は、顔と全身に入れ墨をした「黥面文身」の民であった。
 先に述べた『論衡(ろんこう)』巻一九「恢国(かいこく)篇」によれば、紀元前1,000年ころには、会稽の地に倭人が居住し、周に朝貢していた。さらに古く、紀元前1,800年ころの夏の時代にも、同地には、「黥面文身」の倭人が居住しており、夏后少康の庶子、無余が倭人の風俗を取り入れている。
 この無余は、春秋時代に越(えつ)国を建国した越王勾践(えつおうこうせん)の始祖であり、無余の一族が会稽の地で越族を形成し、同地で倭人と共存共栄していたのが周の時代、紀元前1,000年ころであるが、周が分裂し、春秋時代(紀元前771年ー同453年)になって群雄が割拠し、越国が呉国を攻め滅ぼしたのが紀元前473年、このころに大陸の混乱を逃れて、「狗奴国(沖縄)」に退去したのが会稽に進出していた倭人である。その結果、魏の時代、三世紀半ばの古墳時代の倭人の勢力範囲は、狗奴国が最南端であり、今日まで脈々と続いている。
 縄文時代に倭人は、九州の地から奄美諸島を経て沖縄諸島、そして南西諸島の島伝いに大陸の会稽に進出したが、その逆もある。越国は紀元前306年に楚(その)国によって滅亡し、その遺民が島伝いに九州に上陸し、さらに海行の末、最初は山陰の出雲国(島根県)の高志(越)、さらにその先の北陸の地に越国(越前、越中、越後)を領有するようになるが、天つ神一族が朝鮮半島から日本本土に帰還するよりも100年以上先行している。
 縄文時代の倭人は、台湾の先、会稽にまで進出していた。その航海技術をもってすれば、北九州、あるいは山陰から朝鮮半島に渡海し、日本海を内海の如くにして往来、海上交易を担うのも容易である。ちょうどこのころに西アジアから地中海沿岸では、フェニキア人が海上交易の主役であった。しかし、巨大な統一国家の誕生によって縄文の倭人もフェニキア人もその特権を失うことになる。
 朝鮮半島に縄文の倭人が居住していた痕跡は、時代は下がるものの、まず280年に成立した『三国志』「魏書三十 烏丸(うがん)鮮卑(せんぴ)東夷伝(とういでん)第三十 韓(から)」に、

 韓は帯方の南に在り、東西は海によって限られ、南は倭と接し、方は四千里。三種あって、一は馬韓(ばかん)といひ、二は辰韓(しんかん)といひ、三は弁韓(べんかん)といふ。

とある。
 同様に432年に成立した『後漢書』「巻八十五 東夷列伝 三韓」に、

 韓に三種有り。一は馬韓といひ、二は辰韓といひ、三は弁辰といふ。馬韓は西に在って、五十四国、其の北は楽浪(らくろう)と、南は倭と接す。辰韓は東に在って、十二国、其の北は濊貊(わいはく)に接す。弁辰は辰韓の南に在り、亦十二国、其の南も亦倭に接す。

とあり、両書ともに朝鮮半島北部は漢の帯方(たいほう)郡、中部が三韓、そして南部に倭が位置し、三韓と隣接していると記している。
 朝鮮半島の歴史は地政学上、陸続きの大陸の政情がダイレクトに影響する。紀元前1,100年ころ中国の古代王朝、殷(いん)が周に滅ぼされ、殷の遺民の箕子(きし)が朝鮮半島北部に箕子朝鮮を開く。この900年後、秦の始皇帝が天下を統一したのが紀元前221年、同226年には朝鮮半島の北側に隣接していた燕国が滅亡し、その遺民が箕子朝鮮に代わって衛氏(えいし)朝鮮を打ち立てる。秦の天下統一は、朝鮮半島の倭人にも混乱をもたらし、倭人の一部族が天つ神一族として本国日本に帰還することになる。
 秦が漢によって滅ぶと朝鮮半島北部に帯方郡が置かれ、朝鮮半島に国が乱立する時代になり、その中の一つに倭人の国があった。
 中国大陸に古代国家、夏・殷・周が誕生した時代の日本は縄文時代である。古代国家の時代は、辺境の地にある北の朝鮮半島や南の会稽にまで支配は及ばず、縄文の倭人がその航海技術を駆使して縦横に往来していたのであり、巨大権力に対抗するための国家を必要としない時代であった。
 縄文時代の倭人は、海洋を活動、生活の場とする海洋民族の倭人と内陸の山間地域を活動、生活の場とする、現在一般的に語られる縄文の倭人に大別することができる。中国の文献に登場する倭人は、海洋民族としての倭人であり、内陸山間地の倭人は、そもそも交流がなく文献に登場しようがない。しかし縄文遺跡としては内陸山間地の倭人の遺跡が圧倒的であって、海洋民族としての倭人の遺跡は貝塚に見るのみである。
 その貝塚であるが、分布しているのは、現在の海岸線近くではなく、内陸に入ったところで発見されている。その理由は縄文海進(じょうもんかいしん)に求めることができる。
 縄文海進は縄文時代の海面上昇のことであり、約19,000年前から海面が上昇し、そのピークは約6,500年前から約6,000年前までの縄文時代に該当している。この時代の海面は、現在よりも5メートルも高く、貝塚は縄文時代の海岸線近くに形成されているのである。
 この時代はまた、北米や北欧の氷河が融解し、日本列島周辺の海面が上昇するほどに温暖な時代であった。縄文遺跡が鈴鹿、不破両関の東側である東日本に集中しているのも食糧である動物性蛋白とともに主食の炭水化物、クルミ、クリ、トチといった堅果類が豊富に採取できる落葉樹林帯の植生に関係している。この地域を生活圏としていたのが山の民、縄文の倭人である。
 縄文海進のピークは約6,500年前から約6,000年前であるから、この後は海面が徐々に低下し、約5,000年後の弥生時代には、現在の海面に戻る。気候は温暖な縄文時代から寒冷な弥生時代に変化し、当然植生も激変、主食であるクルミ、クリ、トチといった堅果類が不作、あるいは絶滅してしまう。縄文遺跡を代表する三内丸山遺跡が約4,200年前に姿を消すのもこの植生の変化に起因している。
 この気候変動に伴う植生の変化によって縄文人は絶滅したのかというと、決してそうではない。弥生人としてさらに発展するのである。縄文の食糧事情を好転させたのが水田稲作である。海水面の低下によって広大な湿地帯が生まれる。湿地帯の開墾によって水田稲作が始まり、食糧難の解消だけでなく、人口が増加し、縄文の豊かな精神文化に加え、青銅器とそれに続く鉄器がもたらす高度な物質文明の時代に踏み出すのである。
 山の民である縄文の倭人が平地に下り、海の民である縄文の倭人が陸地に上がり、共に水田稲作を開始するのであるが、その普及に大きく貢献したのが天つ神一族の末裔である。天つ神一族は、朝鮮半島と日本本土、中国大陸を海上交易の場とする倭人、海の民であり、その航海術と行動力によって水田稲作の普及に寄与したことが『古事記』に明記されている。おそらく水田稲作の最初は、紀元前1,000年ころに周が分裂し、紀元前771年の群雄が割拠する春秋時代にかけて、大陸の政情不安から江南の越人が南九州に逃れて始めた、湿地を利用した原始的な水稲稲作であろうが、近畿一円に及ぶ灌漑や土木を伴った水田稲作の普及発展には天つ神一族の活躍に俟(ま)たねばならない。

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